Romanliteratur


愛色の絵具


2013.11.08

ノボル君と僕

ーーどうしたんだ!ノボル君、頑張れ!
 マサトは必死になって声援を送っていた。
 最初のグループで走ったアキラは、スタートからすんなり先頭に立ち、そのまま誰にもハナを譲ることなく、悠々と一着でゴールを駆け抜けた。
 それに対して次のグループで走っているノボルは、スタート直後からずっとしんがりに位置し、先頭まではかなり後れをとっていた。
ーーあれっ、ノボル君はアキラ君に負けないぐらい速く走れるはずなのに、どうしたんだろう……。ノボル君、今日はどこか体の調子でも悪いんじゃないのかなあ……。
 そんな、マサトの心を覆っていた不安の雲を少しずつ晴らしていくかのように、やがてノボルは風になった。
 二周目には二人抜き、三周目には三人抜いて、最後の四周目に差し掛かるあたりでは、前を行く二人に猛然と迫っていた。
 ノボルは更にペースを上げ、バックストレッチで一人抜き去った。
 前にいるのはあと一人だ。
 最後のコーナーを過ぎ、直線に向かうところで並びかけたノボルは、ゴール寸前で計ったように体ひとつ抜け出して先頭でゴールテープを切った。
 マサトは驚いていた。
ーーノボル君、あんなに後ろにいたのに……もう駄目だと思った。それなのに勝っちゃった。凄い!ノボル君凄い!
 港町小学校での運動会。一周200メートルのトラックを四周する、四年生の800メートル競争は、クラス対抗戦で行われた。一組から八組まで、各クラスからの代表選手二名による二回戦だ。その結果、マサトの四年八組は、最初に走ったアキラと次に走ったノボルの二人が、レース展開はまったく対照的だが、どちらも一着になり、八組の圧勝劇に終わった。
「ノボル君、やったね!カッコいい!でも僕ヒヤヒヤしちゃったよ……。負けちゃうんじゃないかと思って……」
「えっ、そうなの? 僕は自分のペースで計算した通りに走ったんだよ」
「だけど、最初の組で走ったアキラ君は、ずっと先頭で走っていたから安心して見ていられたけど、ノボル君は一周目までビリだったんだもの……」
「それは、アキラ君は強いから、ずっとトップで走る自信があるんだよ。でも僕はそんなに強くないから、どうしたら勝てるかなと考えたんだ。最初からとばしたらバテてしまうかもしれない。じっくり力を貯めて少しずつ……そして最後にその力を爆発させようと思ってね……」
「だけど、アキラ君と一緒に走ったら、いつも同じぐらい速いじゃない? アキラ君のように走ろうと思えば、ノボル君ならできたんじゃないの?」
「うん、そうかも知れないね……」
 ノボル君は僕の方を見て、ちょっぴり照れたように下を向いた。
「〝ペース配分〟っていうんだけど、ちょっと長い距離を走る時は、自分の力と相手の力を計りながら、そのー
……、駆け引きっていうか、そういうものが必要なんだ。僕はここでそれを試してみたかったんだよ。それは、アキラ君のように、何も考えないで力ずくで走っても、勝てたかもしれなかったけど……。でもやっぱり試してみてよかったよ。マサト君に、カッコいいって喜んでもらえたんだから!」
「うん、本当に、何か凄くカッコ良かった!」
「そうでしょう?」
「うん、最初はビリでも、最後はトップなんて、すごくドラマチックで……」
「初めも大事かもしれないけど……、でも一番カンジンな事は、最後がどう終わるかって事でしょう?」
 そう言って、ノボル君はにっこりと微笑んだ。

 




2013.10.25

日光で会った二人連れ

 参道の杉並木をぶらぶら歩いていると、いつしかしとしとと雨が降り出した。
 ここ日光東照宮を訪れるのはこれで三度目だし、あらかた社殿も見物し終わった。オサムは空を見上げ、そろそろ待ち合わせのバスに戻ろうと歩を速めようとしていた。
 その時ふっと、オサムの頭上に傘が差しかけられた。
「よかったら、僕たちとご一緒しませんか?」
 声のした方に顔を向けると、傘を差した二人連れの男が、オサムを見てにこやかに微笑んでいる。オサムと同年代ぐらいで、一見して二人は、とても気の合った友人同士にみえた。
 それから三人は並んで参道を歩き出した。
 二人ともオサムと同じ大学四年生で、大学院に進む予定だと言う。勉強を頑張った自分たちへのささやかなご褒美にと、日光へ一泊旅行に来た。これから、いろは坂をドライブして奥日光へ足を伸ばし、中禅寺湖を見たりして温泉宿に泊まるつもりだと言う。
 オサムは、とある会社の新卒内定者による親睦旅行に来ていた。人手不足で売り手市場である就職戦線では、企業はあの手この手で人員確保に努めていた。
 ひところの学園紛争もすっかり治まったいま、手のひらを返したように就職活動に勤しむ学生たちを尻目に、デモと麻雀に明け暮れ、ろくに勉強もしてこなかったオサムには、周りのみんなのあからさまな変身ぶりには、どうにもついていけなかった。自分ひとり取り残されたような気分でシラケていた。
 とりあえず格好だけでもつけようと、三流企業に応募して内定を得、久し振りに旅行できるからと今日の親睦旅行に参加したのである。
「それじゃ、その会社に本気で入社する気はないんだね」
 オサムがそうだと答えると、二人は顔を見合わせて頷きあった。
「よかったら僕たちと一緒に行かない? 小さな民宿旅館だから、一人増える分には何とでもなると思うんだ」
 オサムに傘を差している男が言うと、その隣の男が言った。
「ねえ、そうしようよ。君にはもう少しじっくり考える時間が必要だと思うよ。自分が本当は何をしたいのかをね……。そのために僕たちが少しでも力になれれば……と思うよ」
「でも、会ったばかりの人にそこまでしてもらっては……」とオサムが言うと、傘を差しかけている方の男が言った。
「そんなことは関係ないんじゃない? 人と人って、身近にいても分かりあえないこともあれば、会ったばかりでもすぐに意気投合するって事もあるんじゃないかなあ? あーっ、それと、僕たちレンタカーで来ているから、帰りは東京の君の家まで送るし、君の泊まったりする費用ぐらい僕たちが面倒みるから……。どうしてもそれじゃ気が済まないと言うんなら、いつかそのうち返してもらえばいいしさ……」
 そんなやり取りをしているうちに、三人はバスの停まっている場所に着いた。
 会ったばかりの二人の心遣いに、オサムは感激した。二人の提案に大きく気持ちは傾きつつも、それでもまだ迷っていた。
「ああ、やっと来たか!ギリギリセーフだね。学生時代はそれでもいいけど、社会人になったら約束の時間を守るのは最低限のルールだからね。決められた時間の5分前、いや10分前には着くようにしないといけないね。さあ乗った!乗った!すぐ出発するよ。次のスケジュールがあるからね」
「そのー、実は……」
 何か言いかけようとしたオサムの背中を、有無を言わさずバスに押し込んで、引率の係員は言った。
「はい、みなさん、それでは次の予定地に向け出発します!」
 バスに乗り込んだオサムを、名残惜しそうな目で見ていた二人の顔……、それでもバスが発車しそうになると、手を振ってにっこりと微笑んでいた二人の顔が……、あれから何十年も経った今でも、オサムの脳裏にはずっと焼き付いている。




2013.10.17

クドーを待ちながら

「どうしたのかしら? クドーさん、遅いですね」
 ママの梢が言った。
「そうだね。どうしたんだろうね……」カウンター席に座っている常連客のタケルが応える。
 ここは東京のとあるスナックの店内である。
 この店で落ち合って飲もうと、クドーから連絡があり、タケルはそのクドーを待ちながら、さっきからひとりで飲んでいるのだ。タケルのほかに店の客はいない。
 タケルは31歳の独身で、現在つきあっている彼女はいない。タケルにはママの梢は、時には20代前半ぐらいに若く見えることもあれば、ひょっとして30代後半なのではと思うくらい大人っぽく見えることもある。あまり女性とつきあったことのないタケルにとって、女は謎だ。
 タケルは、梢のことが本当に好きなのか、彼女の謎の部分を解き明かしたいからこの店に通っているのか、自分でもよくわからない。でも、梢が自分を他の客とは違う特別な扱いをしてくれていることは、何となくわかる。それも単なる常連客のひとりとしてではなく……。
「ねえ、沖縄の海洋博って、タケルくん興味ある?」
 梢がタケルのグラスに氷をつぎたしながら訊いた。
 日本に沖縄が返還された3年後の1975年、今沖縄では世界海洋博が催されている。
「それなりに盛り上がっているようだけど、まだ5年前の大阪万博のインパクトが強く残っているからねえ……」
「そうね……」
 タケルは水割りをちびちび飲みながら、絶え間なく煙草をくゆらせている。
 梢も煙草に火をつけた。
「まだ雨降ってるのかしら?」
「さあ、どうだろうね……」
 地下一階のスナックである。
「見てこようか?」
「ううん、いいの。それよりタケルくん、何か歌でも歌ってよ」
「えー、俺は……歌えないよ」
 店内には有線のジャズの音が静かに流れている。
 梢は、半分ほど残っていた水割りのグラスをぐいっと傾けて飲み干した。
「ふーっ。じゃ私いきます!母校の校歌を歌います。せーの、都の西北、ワセダの杜にー、そびゆる甍はわれらが母校ー。われらが日頃のー」
「えー、ちょっと、ちょっと!」
「何よ、人がせっかく気持ちよく歌ってるのに!」
「梢さんって、ワセダ出身だったの?」
「ええ、そうですけど……」
「何だ、俺の先輩なの?」
「ーなわけないでしょう!私は××年卒です!」
「それじゃ、君は俺の2年後輩じゃないか!それなら、これからもっと勘定安くしといてくれよ!」
「もう、それとこれとは別です!」
 二人は顔を見合わせて笑った。
「じゃ、同校のよしみで、乾杯しましょうか!」
 梢は新しい水割りを2杯つくった。
「じゃ先輩、これからもよろしくお願いします!」
「うん、よろしくね」
 二人はお互いをじっと見つめあって、グラスを合わせた。
 梢は、もやもやしていた二人の関係がぐっと近づいたのを感じた。
「それにしても、クドーさん遅いな……」
「そうですね……」
 タケルの言葉に頷きながら、梢は心の中で手を合わせていた。
〈クドーさん、ありがとう〉
 店の外は雨もあがっていた。雲の切れ間から星が一つ輝いて、店の看板に貼ってある〝本日貸切〟の文字をくっきりと浮かびあがらせていた。




2013.10.10

金木犀

「彩子ちゃん、金木犀の香りが素敵だわね!」
 あわただしく店に入ってくるなり、笑顔をふりまきながら小池さんが言った。
 この店に足繁く顔を出してくれる常連さんである。
「そうですね。まったく、お隣りさんのおかげですね」
 ここは、東京の住宅街にぽつんと店を構えている、とあるカフェレストランである。隣家の庭には大きな金木犀の樹があって、
毎年秋になると、開け放たれた店の天窓から芳香が漂ってくるのである。
「いやいや、この店のコーヒーの香りもなかなか負けていないよ」
 常連のひとりである近藤さんが口をはさんだ。
 小池さんも近藤さんも、古希を過ぎたぐらいの年齢で、この店の操業以来10年あまり、欠かさず顔を出してくれる貴重なお得意様である。
〝カラン、コロン〟
 入口のドアが鳴って入ってきたのは、サラリーマンの平田さんだ。40代前半の独身で、どんな仕事をしているのかはわからないが、あまり
楽しい職場ではないらしいことは確かだ。
「あーあ、またやられちゃったよ。もうちょっとで穫れたんだけどなあー。彩子ちゃん、コーヒーお願いね。うんと濃いやつ!」
 日曜日の昼下がりで、また例によって競馬でスッたようだ。
「そういえば、平田くんから景気のいい話を聞いたのは、いつの事だったかなあ……。もうしばらく聞いていないよなあー」
「近藤さん、賭け事ってのは、たまに当るからこそいいんで、いつもいつも当ってたんじゃ、つまらなくて面白くもなんともないですよ」
「まあ、そう言われてみれば、そんなもんだろうなー。俺も若い頃は、麻雀をよくやったけど、勝ったり負けたりだから面白いんだよな」
「でも、負けたり負けたりじゃ、やっぱり面白くないでしょうに!」
 小池さんが横やりを入れると、みんなは爆笑した。
「あーあ、明日は月曜日か……。まったく、ブルーマンデー(憂鬱な月曜日)とはよくいったもんだ」
「あら、そんな人は金木犀の香りでもじっくり嗅いだらいいのよ。中国には、『月には木犀の大木が茂っている』という伝説があるのよ。
花の香りがこの世のものとは思えないほど、人を夢見心地にさせてくれるということで、そういう伝説ができたんでしょうね。
どう? 平田くん、この花の香りをうんと嗅げば、明日の月曜日が金曜日か、せめて木曜日ぐらいの気分になれるんじゃないの?
金木セイだけに……」
「ハハハ、うまいこといいますね、小池さん。じゃ、精一杯、花の香りを身体じゅうにしみ込ませて帰りますよ」
「ああ、よかった……。ねえ、彩子ちゃん、私もたまにはいい事言うじゃない?」
「ええ、優しいお客様たちに囲まれて仕事ができて、私本当に自分の名前の通り、サイコーです!」
「オー!」
 近藤さんが拍手して、みんなも続いて拍手した。
 ひとしきり拍手が止んだ後、小池さんが言った。
「ところで彩子ちゃん、金木犀の花言葉って、何だったっけ?」
「それは確か、〝謙遜〟ですね。まるで私たちの事みたいですよね、小池さん!」
「そうかしら? ウフフ……」と笑う小池さんを見ながら、すかさず近藤さんが言う。
「その一言が余計なんだよな……。それを言わなきゃ、二人ともサイコーなんだけどなー」
 店内はまた爆笑に包まれ、天窓からの金木犀の香りがひときわ漂ってきた。




西荻在住のの作家、天高文によるショートストーリー集。