クドーを待ちながら

「どうしたのかしら? クドーさん、遅いですね」
 ママの梢が言った。
「そうだね。どうしたんだろうね……」カウンター席に座っている常連客のタケルが応える。
 ここは東京のとあるスナックの店内である。
 この店で落ち合って飲もうと、クドーから連絡があり、タケルはそのクドーを待ちながら、さっきからひとりで飲んでいるのだ。タケルのほかに店の客はいない。
 タケルは31歳の独身で、現在つきあっている彼女はいない。タケルにはママの梢は、時には20代前半ぐらいに若く見えることもあれば、ひょっとして30代後半なのではと思うくらい大人っぽく見えることもある。あまり女性とつきあったことのないタケルにとって、女は謎だ。
 タケルは、梢のことが本当に好きなのか、彼女の謎の部分を解き明かしたいからこの店に通っているのか、自分でもよくわからない。でも、梢が自分を他の客とは違う特別な扱いをしてくれていることは、何となくわかる。それも単なる常連客のひとりとしてではなく……。
「ねえ、沖縄の海洋博って、タケルくん興味ある?」
 梢がタケルのグラスに氷をつぎたしながら訊いた。
 日本に沖縄が返還された3年後の1975年、今沖縄では世界海洋博が催されている。
「それなりに盛り上がっているようだけど、まだ5年前の大阪万博のインパクトが強く残っているからねえ……」
「そうね……」
 タケルは水割りをちびちび飲みながら、絶え間なく煙草をくゆらせている。
 梢も煙草に火をつけた。
「まだ雨降ってるのかしら?」
「さあ、どうだろうね……」
 地下一階のスナックである。
「見てこようか?」
「ううん、いいの。それよりタケルくん、何か歌でも歌ってよ」
「えー、俺は……歌えないよ」
 店内には有線のジャズの音が静かに流れている。
 梢は、半分ほど残っていた水割りのグラスをぐいっと傾けて飲み干した。
「ふーっ。じゃ私いきます!母校の校歌を歌います。せーの、都の西北、ワセダの杜にー、そびゆる甍はわれらが母校ー。われらが日頃のー」
「えー、ちょっと、ちょっと!」
「何よ、人がせっかく気持ちよく歌ってるのに!」
「梢さんって、ワセダ出身だったの?」
「ええ、そうですけど……」
「何だ、俺の先輩なの?」
「ーなわけないでしょう!私は××年卒です!」
「それじゃ、君は俺の2年後輩じゃないか!それなら、これからもっと勘定安くしといてくれよ!」
「もう、それとこれとは別です!」
 二人は顔を見合わせて笑った。
「じゃ、同校のよしみで、乾杯しましょうか!」
 梢は新しい水割りを2杯つくった。
「じゃ先輩、これからもよろしくお願いします!」
「うん、よろしくね」
 二人はお互いをじっと見つめあって、グラスを合わせた。
 梢は、もやもやしていた二人の関係がぐっと近づいたのを感じた。
「それにしても、クドーさん遅いな……」
「そうですね……」
 タケルの言葉に頷きながら、梢は心の中で手を合わせていた。
〈クドーさん、ありがとう〉
 店の外は雨もあがっていた。雲の切れ間から星が一つ輝いて、店の看板に貼ってある〝本日貸切〟の文字をくっきりと浮かびあがらせていた。