金木犀

「彩子ちゃん、金木犀の香りが素敵だわね!」
 あわただしく店に入ってくるなり、笑顔をふりまきながら小池さんが言った。
 この店に足繁く顔を出してくれる常連さんである。
「そうですね。まったく、お隣りさんのおかげですね」
 ここは、東京の住宅街にぽつんと店を構えている、とあるカフェレストランである。隣家の庭には大きな金木犀の樹があって、
毎年秋になると、開け放たれた店の天窓から芳香が漂ってくるのである。
「いやいや、この店のコーヒーの香りもなかなか負けていないよ」
 常連のひとりである近藤さんが口をはさんだ。
 小池さんも近藤さんも、古希を過ぎたぐらいの年齢で、この店の操業以来10年あまり、欠かさず顔を出してくれる貴重なお得意様である。
〝カラン、コロン〟
 入口のドアが鳴って入ってきたのは、サラリーマンの平田さんだ。40代前半の独身で、どんな仕事をしているのかはわからないが、あまり
楽しい職場ではないらしいことは確かだ。
「あーあ、またやられちゃったよ。もうちょっとで穫れたんだけどなあー。彩子ちゃん、コーヒーお願いね。うんと濃いやつ!」
 日曜日の昼下がりで、また例によって競馬でスッたようだ。
「そういえば、平田くんから景気のいい話を聞いたのは、いつの事だったかなあ……。もうしばらく聞いていないよなあー」
「近藤さん、賭け事ってのは、たまに当るからこそいいんで、いつもいつも当ってたんじゃ、つまらなくて面白くもなんともないですよ」
「まあ、そう言われてみれば、そんなもんだろうなー。俺も若い頃は、麻雀をよくやったけど、勝ったり負けたりだから面白いんだよな」
「でも、負けたり負けたりじゃ、やっぱり面白くないでしょうに!」
 小池さんが横やりを入れると、みんなは爆笑した。
「あーあ、明日は月曜日か……。まったく、ブルーマンデー(憂鬱な月曜日)とはよくいったもんだ」
「あら、そんな人は金木犀の香りでもじっくり嗅いだらいいのよ。中国には、『月には木犀の大木が茂っている』という伝説があるのよ。
花の香りがこの世のものとは思えないほど、人を夢見心地にさせてくれるということで、そういう伝説ができたんでしょうね。
どう? 平田くん、この花の香りをうんと嗅げば、明日の月曜日が金曜日か、せめて木曜日ぐらいの気分になれるんじゃないの?
金木セイだけに……」
「ハハハ、うまいこといいますね、小池さん。じゃ、精一杯、花の香りを身体じゅうにしみ込ませて帰りますよ」
「ああ、よかった……。ねえ、彩子ちゃん、私もたまにはいい事言うじゃない?」
「ええ、優しいお客様たちに囲まれて仕事ができて、私本当に自分の名前の通り、サイコーです!」
「オー!」
 近藤さんが拍手して、みんなも続いて拍手した。
 ひとしきり拍手が止んだ後、小池さんが言った。
「ところで彩子ちゃん、金木犀の花言葉って、何だったっけ?」
「それは確か、〝謙遜〟ですね。まるで私たちの事みたいですよね、小池さん!」
「そうかしら? ウフフ……」と笑う小池さんを見ながら、すかさず近藤さんが言う。
「その一言が余計なんだよな……。それを言わなきゃ、二人ともサイコーなんだけどなー」
 店内はまた爆笑に包まれ、天窓からの金木犀の香りがひときわ漂ってきた。